ズィナ編  (17)



どうして、思い出せなかったのだろう。
ズィナの手から離れた金属棒は、音を立てて床に落ちた。
何故、それでもオシャーンは、自分のことを覚えていなかったのだろう。
天板に記されていた魔方陣は、光を弱め、やがて消えた。

ズィナは静かに首を振る。
そして、あまりにも不自然な記憶の零れ方に自嘲した。
思い出せなかったのでは無い。
思い出したくなかったのだ。

だから当時、思い出せないようにした。
しかし記憶はこうも容易く浮き上がる。
思い出せないようにした事すら、思い出せずにいたのだから。
小さな取っ掛かりが気になり、引きずり出してしまったのだから。

シューナの本音としては、オシャーンに贈った記録魔法瓶の使い勝手を聞きたいと思っていた。
とはいえ無口な彼のことだ。何も言われないのは、順調に使えている証でもあるのだろう。しかし無口な彼のことだ。何か問題があっても、敢えて言わないだけかもしれない。
自分としても、わざわざ相手に感想を聞くのは憚られた。だが、どちらも何も言わずにいると何も進展しない。今後の魔法の研究の為だと自身に言い聞かせ、シューナは腹を括った。

図書館の長机で普段のように本を読み耽るオシャーンに、声を掛ける。
「失礼ですが」
彼は頁に手を掛けたまま、小さく顔を上げた。
「…何」
頼み事をしてきたあの時と、まるで異なる眼差し。
シューナは少々臆されながら、言葉を続ける。
「先日差し上げた記録魔法瓶ですが、使い勝手は如何でしたか?」
彼は小さく首を傾げた。
「…普通だった、気がする」
思いも寄らない返答に、シューナは瞬きを繰り返した。
「普通…に使えたという事でしょうか」
「… 多分」
「多分…ですか」

見返りを求めていた訳では無かった。と、自負しているつもりだった。
しかし、あの時のオシャーンに期待を寄せた自分がいるのも事実だった。

そんな出来事から、数日後。
フッセの魔法道具の点検を終えると、彼は大いに喜びながらお礼を言った。
ぶっきらぼうだったオシャーンとつい比べてしまう自分に気付きつつも、シューナは平生を装って魔法道具を手渡す。
「どうしたの?」
表情の硬さに気付いたらしいフッセが、自分の顔を覗き込んできた。
「いえ…考え事をしていただけですよ」
心配を掛けまいとして笑い直す。フッセも作り笑いだと分かっていたに違いない。追求しなかったのは、彼なりの気遣いなのだろう。

自分の部屋への帰り道でも、オシャーンの事を考え続けていた。
余程、心への作用が強かったらしい。

――私は彼に、何を求めていたというのだろう?

――いっそ、瓶を贈った事すら忘れてしまえば…

シューナは足を止め、顔を上げる。

「忘れてしまえば…!」

早足で自室に戻ったシューナは、机上に資料を広げる。部分忘却に関連する魔法を探し始めるが、これまで必要としなかった魔法の為か、見当たらなかった。
図書館に行くことを思いつくが、そこにはオシャーンが居る。何かの拍子で思い出す事を防ぐ為、魔法に至る経緯には、なるべく彼を関連付けたくなかった。

シューナはふと、魔法合成書に視線を落とす。
魔法を保存する機能を備えるそれは、いわば、抽象物を保存する道具。
抽象物を保存できるのなら、自身の記憶も保存できるはず。
そして魔法合成書の存在は、瓶以外の物質への抽象物の保存が可能である事を示していた。

消した記憶の行方が不確かな、単純な忘却魔法よりも余程確実だ。
そう踏んだシューナは、部屋の奥から繋がる小部屋へと立ち入る。
生活や研究に直結しない雑多な道具を置いていたその小部屋で、シューナは1本の杖を手に取った。
細長い柄の先に、蕾を摸した飾りの施されている杖。

「まさか杖の中に記憶を保存するなんて、私でさえも思いませんよね?」

口元を歪めて呟いたその時、玄関扉を叩く音で我に返った。
「何なんですか、こんな時に」
渋りながらも入り口へ向かい、扉を開ける。
と、こちらが何かを言うより先に、相手が言葉を発した。
「やっぱり気になって… シューナ、無理していない?」
相手の顔を見た途端、邪魔された事への苛立ちはすっかり吹き飛んだ。
「フッセ…さん…」

思いも寄らない訪問客に呆けていたところ、「何か変なこと言っていたらごめんね?!」とフッセの慌てる声で我に返る。
「いえ、そういう事では無く… 私については大丈夫ですよ」
「そうかなあ。だって…」
「貴方が関与すると、貴方の記憶をも消すことになりますよ」
食い下がろうとするフッセを突き放そうとして、つい本当の事が口に出た。
しまったと思った時にはもう、遅かった。
「記憶…?」
小さくなった瞳が震え始める。
「忘れさせようとしているの? それとも、忘れようとしているの?」
「後者ですよ。覚えている事が辛い記憶だってあるんです」
最早やけくそになっていた。
「貴方を守る為です。これ以上この件には関わらないでください」
ドアノブに手を掛けようと身を乗り出したところで、フッセに両肩を強く掴まれる。
「絶対に駄目だよ、そんな事」
長い瞬きの末、フッセが鋭い眼差しでこちらを見上げた。
「忘れる事がいけないとは言わないよ。
 辛い記憶にシューナが押し潰される方が、僕にとっては辛いから。
 だけど、そこに魔法を使うなら、危ない事だからやめて欲しい」
「…私の魔法が不確かだと言うのですか」
「そう言いたいんじゃないよ!だけど、もし万が一のことがあって、シューナに何かあったら…」
目の前で、相手の眉が下がっていく。
「では今のうちに、転換石の治療法をお伝えしましょうか」
相手は必死に首を横に振った。
「おや、これは参りましたね… 大丈夫ですよ、貴方に心配を掛ける事態にはしませんから」
そうじゃない、とフッセが今にも泣き出しそうな表情になった。
「魔法を使わないって言ってよ」
「貴方に嘘はつききれませんからね。今すぐには実行しませんよ」
「だったら」
踵を上げたフッセの瞳が近づく。
「いつまでも、僕はシューナを引き留め続けるから」




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