時空橋編(35)
守りたいからこそ、知られたくないものがあった。
隠すことが最善だ、そう信じて守ってきた。
のちに覚えたのは、守ってきたものを誰かに委ねることだった。
それが最善なのか、今の私には分からない。
***
コーレニン東部、ララーノの部屋。
無意識に目元を拭った自分に気付いて、私は目を覚ました。
頬の上が乾いたような感覚がする。泣いていたのだろうか。
折れ曲がった右腕が、弱々しく布団へ下りていった。
なにも私はすべてを誰かひとりに委ねた訳ではない。ばらばらに断片を預けてある状態だ。
まだ怖がっている。他の誰かがすべてを知っていたとしても、私の、ズィナ・シューナの生い立ちは、ユイユ・フッセに知ってほしくない。
彼なら話せば受け入れてくれるだろう。でも、彼の魂に事実として刻んでほしくない。
できれば世代交代まで持ち逃げたい。しかしユイユや私の前には数多の先代がいるように、そして彼らが魂の本に記憶を宿しているように、私達が世代交代したあとにも『続き』があることを思い知ってしまった。
いずれ彼にも事実を知る時が訪れるのだろう。であればせめて、知るきっかけは私の話す言葉であってほしい。
この理想を望むのなら、その時まで彼を守るのは私だ。
彼に向ける感情がどれほど歪んだものなのか、自分でもよくわかっていた。
もしかすると、往時のシューナも。
やめよう。
仰向けのまま頭を傾けると、ララーノの枕元をやわらかく照らす明かりが目に入った。眠るときに消したはずが、ひとりでに灯っていたらしい。
たったひとつ灯る明かりは、両手で包んでしまえそうなぐらい小さかった。しかしながら周りに置いてある木箱の縁や、硝子玉のてっぺん、本に挟まった栞の端っこと、この部屋に住まう物たちにほのかな光を分け与えていた。
まるで遠くにあるはずの星々を間近で見渡すような光景だった。ひとつずつ数えたくなる感覚は、幼い頃に眺めた絵本を思い出す。
暗い色の絵具を塗り重ねて、明かりの色を差し込んで──そうやって描いたのだろう、もとの原画は。
そこまで考えて溜息をつく。
私が絵具の扱い方を知っているのは、過去に『私』の身体が絵を描く様子を何度となく見てきたからだ。絵本だって『私』の身体が頁を繰るのを眺めていただけ。それでも、視界に飛び込んできた絵本のあの光景を、私は美しいと思った。
何も自分の手で触れていないのに、私は自分の身体の為すがままに知識を蓄え、感性を育んでいった。そうして集めたものを頼りに、今は世界に触れている。
どこか虚ろで、虚ろな隙間に確かな欠片を埋めていくのは途方もない。いったいこの先どれほどの日々を費やすのだろう。
時期が時期なら広場に放り出された感覚にもなり得ただろうが、目の前にはすべき事が見えている。起きねばならない理由のそれは、起きるのを躊躇いたくさせる。
昨日の私はルーの魂系ふたりになら、すべてを明かしてしまえると思っていたはずなのに、なぜだろう。深い息を吐き出さずにはいられなかった。
なんとか身体を起こすものの、鼻先が布団にくっつきそう。そのまま布団を抱えようとしたが、いけない。布団を向こうへ押しやって、脚から引き剥がしたところで、また息がこぼれた。
「ララーノさん」
掠れた声で呼ぶと、寝台の上でもぞもぞ動く音がした。間もなく、ぽこんと頭が出る。
「おはよう?」
ララーノが枕元の明かりに触れると、辺りがぱっと明るくなった。そして、部屋の中のどれにも、それぞれの色彩がひらいた。
「おはようございます。昨晩はありがとうございました。ユイユさんのことも、お布団も」
「いいの。オシャーンの……ありがとう」
布団と布団の隙間から出てきたのは、たたみ直したタオルケットだった。
「いえ。オシャーンさんからお借りしていただけですので」
そうは言ったが返してもらえて助かった。持ってきた時と同じように、受け取ったタオルケットで魂の本を包み隠した。
***
コーレニン北東部 図書館
朝食を済ませて到着すると、玄関前でモンサシアと居合わせた。
「ララーノちゃんにズィナ、おはよ!」
「おはようございます。クオノさんはご一緒ではなく?」
「ちょっとね、マホガニーに呼ばれて預かり物してきたの。クオノには中で待っててもらっちゃった」
さらりとそう言うモンサシアは、いつもの屈託のない笑顔だ。
「待ってください。その……」
私が手招きするような素振りをすると、背高のモンサシアがほのかに身を屈めてくれた。
声を潜めて彼女に問う。
「……いったい何を預かって来られたのですか?」
「わかんない!」
「わかりました」
渋い顔をしたのが相手にも伝わったかもしれない。モンサシアも傍で見ていたララーノも、なんともいえない笑顔をしていた。
あくまで推測だが、正体のわからない物を預けられでもしたのだろう。図書館見張りのモンサシアに預けたということは、図書館に置いておくものと考えるのが妥当だろう。
おかしな点があれば、あとから聞けばいい。どのみち顔を合わせないといけないのだから。
玄関の大扉を押してみると、ギイと音を立てて開いた。昨晩オシャーンがかけた結界魔法は解いてあるようだ。
図書館内は書物が密集しているからか、いくらか冷えが和らいでいるように感じる。モンサシアの言ったとおり、遠目にクオノを見かけた。裏口付近でパルメザン達と何か話しているようだ。
オシャーンとエミウルは見当たらないが、昨日と同じ持ち場にいるのだろう。ララーノはするりと書棚の向こうに入り込んでしまった。
私も階段に向かうとしよう。踵を上げかけた、そのとき。
「気になる?」
すぐ後ろからモンサシアに呼び止められた。先程の『預かり物』のことだろう。
「気になるといえば気になります」
「じゃ、見て」
モンサシアが隣に立つ。ニットの上着から取り出して見せたのは、何やら小さい包みだった。
「マホガニーが、図書館に入ってから開けてねって」
彼女の手が包みをひらくとそこに、空っぽの小瓶が現れた。私には見覚えがある。
「どうして記録魔法瓶を?」
「これ、もう使い道が決まっていたの?」
「ええ、おそらく」
以前、工房でマホガニーが作った瓶なのだから、記録魔法瓶として使われる運命が定められているようなものだ。
それをどうして図書館に? まさか。
予感がしたが、それを否定するようにモンサシアは小さく首を振った。
「入れたりしないと思うよ、ここを。全部を記録するなら毎日入れ続けないと意味ないし」
「そうでしょうか」
「たぶんね、お守りなんだと思う。そうならないようにって」
この国の図書館を、蔵書群を、記録魔法瓶の中に残さないといけないことがないように。
「そうであってほしいと、私も願います」
記録魔法瓶は、モンサシアが指定の書棚に隠しておくそうだ。
ついていってみると、まっすぐ目的の書棚に辿り着き、あっという間に書棚の奥へと記録魔法瓶を隠し終えてしまった。
もし何も知らずにいたなら、本が蓋の役目をして魔法道具を隠しているなんて……少しぐらいは思い当たるかもしれない。
ふと、私は自身の腕に目を落とす。
魔法道具の蕾杖。かつて居室に隠されていた魔法道具。
魂の本。今もタオルケットで包み隠している。すぐにでも書棚に戻すつもりだった、が。
伝えるべき相手に、伝えることがある。遠回りになっても、先に伝えに行くべきだ。そう判断した私は、階上へと向かった。
「エミウルさん」
彼女は壁際の椅子に座って本を読んでいた。なるほど、階下から見つからないわけだ。
傍に立って、もう一度。
「エミウルさん」
彼女が私を見上げた。そして私の抱えるタオルケットへ、それを抱える腕へ、肘へと視線を移していく。柔らかな布だけを持つような肘の丸みとは程遠い。昨晩タオルケットを私に勧めたときから、今に至るまで、ずっと彼女は事情を理解していたのだ。
「向き合ったのね」
「はい」
淡々と答えたつもりだった。
しかしエミウルは、本を閉じて私に向き直った。
「あなたの魂系のことなのに、こういう言い方しか選べないの。ごめんなさい」
前置きのあと、彼女は続けた。
「お疲れ様」
と。
「……心が疲れてしまったのは事実です。後に回してしまうことを何度も考えてきました。ですが、もう機会を逃してはならないところまで来てしまいました」
逃してしまうと、二度と意味のある機会が訪れなくなったとき、きっと後悔し続けるだろうから。
「お願いします。カシェさんに繋げてください」
「いいわよ。実は昨夜、あの子に予告だけしておいたの」
彼女は呟く。予告と言えない程度のものだけど。でも、気付いてくれたわ──そうした呟きから逸らすようにエミウルは、手にしていた本を近くの書棚に戻した。
戻ってくると、さっきまで座っていた椅子の座面に手をかざした。
「プィーラ」
呪文とともに四つの魔法陣が映し出された。どれも外周円の中には四つの小円が符号とともに配置され、文字のような細かい曲線が交わらないように組み込まれていた。
エミウルは小円のひとつを選び取り、指先でつい、と動かす。魔法陣からはみ出した小円は、そのまますぐ隣の魔法陣に収まった。
指を離すと、他の小円が魔法陣の円周に沿ってひとりでに動いた。動きが止まってから、そこにエミウルが触れる。すると中の符号が置き換わった。
そうしたやり取りを五回ほど経て終わった。最終的な符号と周りの曲線を見て、エミウルがぽつりと呟く。
「『話を聞こう。ただし条件がある。シューナを宿した魂の本を持ってこい』……」
カシェは私に落とし前をつけろというのだろう。
「相応の条件ですね。構いませんよ」
「……そう」
エミウルの消え入りそうな声が返ってきた。
彼女は指で小円をつい、と動かしてから、魔法陣を消した。
「本当に行くのね」
「はい」
そう応えると、エミウルが手摺りに手を突いて、階下を見下ろす。
ちょうど、太柱の近くにいた長がこちらを見上げた。
「オシャーン。そっちに行くわ」
張り上げても大きくない声だが、長にも聞こえたらしい。彼は頷くと、私達が階段を降りてくるのを待っていた。
「オシャーンさん」
私はタオルケットの包みを持ち上げて見せた。
「昨晩はこちらを貸していただき、ありがとうございました」
長が無言で頷く。
「もうしばらく、お借りしてもよろしいでしょうか?」
長がぱちりと瞬きをした。重たそうな瞼が僅かに見開いた。彼にとっては意外な申し出だったらしい。
「その……」
私は言葉に迷った。長の許可を得るだけなら、当たり障りなく『あると安心できるので』と言えばいい。それで長は認めてくれるだろう。しかし、今はもうひとつ許しをもらわないといけない。迷いの末に口を開き直す。
「必要なんです。私の持つ情報が、おそらく現状の解決に。ルーに近いお二方に」
長のしかめ面が僅かに濃さを帯びたが、構わず私は続ける。
「どのように使うべきか分からなくて持て余しているんです。でも彼らなら、何を埋める情報なのかを判断できるはず。ですから、どうか外出許可をいただけないでしょうか?」
明らかに長は悩んでいる様子だった。
納得できない点があるとすると何だろうか。昨日に続く班員の外出。会おうとする相手。持って行こうとする物。欠けた見張りの穴埋め。いくらでも思い当たる。
どうやら長はそのすべてを網羅したうえで、私には思いつかないことを懸念していたらしい。
長はエミウルと視線を交わし、
「一緒に行ってあげて」
と、言い伝えた。
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