時空橋編(18)

左腕には紅色の魂の本を抱えて。右手は蕾杖を握って。
塞がった両手と共に、廊下を跨いで図書館に戻ると、正面玄関でクオノとモンサシアがにっこり笑って迎えてくれた。
「ズィナくん、おかえり〜!」
「用事は済んだ? なら良かった!」
クオノが拳を軽く握り、玄関扉の端を不規則に連打した。ちょうど、裏側に番金具が位置する辺りだ。
ひとしきり叩き終わると、その箇所にモンサシアが耳を押し当てる。
「ふむふむ、ほお!」
何やら聞いて頷く後代と。
「いいよ、って!」
彼女の代わりに合図を翻訳する先代。
「ありがとうございます」
蕾杖を左手で握り直し、空いた右手で取っ手を掴み、私は扉を押し開けた。
眼前に広がる光景は一見、普段の図書館と変わりない。
しかし、視線を横に流してみると。
いちばん端の閲覧机には、積み上げられた書物が数冊。その隣には、椅子に座ったまま床を見つめる図書館の主。縹の魂系の長、オシャーンだ。
一瞬だけ彼がこちらを見遣るが、またすぐに床へと目を向けてしまう。机越しでよく見えなかったが、どうやら床の何かに手をかざしたらしい。
すぐに事が済んだのか、長は椅子から立ち上がると、机に沿ってこちらに歩いてきた。彼が一歩踏み出すたびに、足首の輪っか同士が当たり、小さく音を立てる。
「ただいま戻りました」
閉めた大扉を背にして、私は長に呼び掛ける。
つい先程まで難しい顔をしているように見えたが、今はその余韻も感じさせない、いつものしかめ面に戻っていた。
「おかえり。祈りの魔法は」
祈りの魔法は。わかったのか? 私は蕾杖と魂の本を抱き締めて、ええ、と小さく頷いた。
「私の居室に、参考となりそうな資料がありましたので、先の彼らにご覧いただきました。『祈りの魔法』を理解するには不可解に残る点もあったようですが、それには私も同意します」
真っ直ぐ見つめる長の瞳は、私の姿をくっきりと映し出す。
曖昧な言葉を渡されて、同意も否定もしないのは、彼の眼差しも同じこと。
あらゆるものを飲み込む海の深さとは、このようにどこまでも透き通るビリジアンを指すのだろうか。
ふと、頭上の灯りのひとつが消えた。瞳に湛えられた海が、一瞬のゆらめきを見せる。その僅かな間に、長は深く奥へと腕を伸ばしたらしい。
水を滴らせながら引き揚げられたのは、
「なぜ、『彼』は祈ったと思う?」
という、波打ち際の問いだった。
「不可解な点は、まさしくそれです。何かを叶えたい、しかし手段がわからない。そこで、どうして魔法を頼れるのでしょうか。……叶ったその後を、明確に想像できていたのでしょうか」
訴えかける私の前で、長がゆっくりと瞼を下ろした。
「……意図せず、魔法が呼び起こされることもある」
長い瞬きを経て、再びビリジアンが開かれる。
「しかし、……魔法であるとわかった上で、『彼』は祈った」
「魔法を使わず祈り願うこともできたのに『彼』は選ばなかった……ということですか?」
「おそらく。魔法が何かを引き起こすことを」
長の眉が、わずかに吊り上がる。
「『彼』は望んだのかも」
話が終わると、長は『あとで来て』と言い残して、書物の積み上がった机へと戻っていった。
私は先に、机を挟んで玄関と向かい合う、曲線豊かな装飾の施された書棚に向かった。全魂系の魂の本を収める棚だ。
一見、背表紙の色並びはばらばらである。グラデーションになっていないどころか、真反対の色が隣り合っている箇所もある。これらの本は、ルーベリー文字の順に並んでいた。
ちょうど真ん中あたりに、ぽっかりと空いた一冊分の隙間がある。そこに紅色表紙の魂の本を押し込むと、私は長の戻った方を見渡した。
実は、館内に立ち入ってから、私は異様な雰囲気を感じていた。
一時的に、長との会話で紛れたようにも思ったが。今になって再び、身を潜めていた滞りの空気が、館内に立ち上り始めていた。
長は既に着席し、先と同じく床を見つめる姿に戻っていた。図書館というこの場所で、横の書物に目もくれない。
あの時と今、彼の視界を何が占めていたのか。彼に近寄り、その正体と対面した私は、これだったのか、と納得した。
彼の足下には、文字の羅列が書き記された紙片が重ねて置かれていた。それらの文字をよく見ると、先の書物探しで得た書物の、文字化けした文章であることがわかる。
紙片について問うより先に、長が口を開く。
「新たに指令書が届いた」
折り畳まれた別の紙片を、長が懐から取り出す。
手渡されたので広げてみると、東部の居室で目にしたものと、同じ文章がそこに記されていた。
「……ララーノさんとエミウルさんはご存知なのですか」
長が頷く。
「ララーノは怖がっていた。……無知の危険よりはまし」
彼の瞼が微かに上がり、視線が館内中央付近の太柱へと向く。
私も倣って振り返ると、太柱の陰から遠目にこちらを覗き見るララーノと目が合った。彼女は不安げな様子で、小さく首を傾げた。
「……彼女たちは、ここにある紙片の中身もご存知なのですか?」
「大枠だけ」
「なぜですか」
「必要な情報が得られていないから」
「それは、……そうでしょうけれど。オシャーンさんの仰る、必要な情報とは何ですか?」
「何を以て、ルーベリーを守れたことになるのか。現地を守ることは、現地の歴史を守ること。なのに、歴史の穴が埋まらなかった」
書物にかけられた魔法を暴くなら、探知魔法を書物に施すのが本来だろう。
しかし、文章を別紙に複写したのは、書物に魔法をかけての調査を長が危ぶんだからだと考えられた。たとえ手順を誤っても後戻りできるようにと保険を残すのには、私も賛同する。
どうやら長は、言葉の崩れ方に規則性を見出そうとしたらしい。だが、見つからなかったようだ。
「これらの紙片を私に見せるために、敢えて片付けずにいたのですか?」
長が頷く。
「ルーの魂系の回答を待たなかったのは、解明を急いだからですか?」
再び頷いた。
「擦り合わせる情報を得るために?」
頷き。
「多方向からの解釈が必要になる場面を見越して?」
頷く。
「当初に言い渡されたルーの方針が『図書館に収められている全ての情報を守ること』だからですか?」
頷き、そして。
「守るものが明確でないのは望まない。知ってはならない歴史なら、ここに置かれていないはず」
と、答えた。
「……同意します」
翻訳に少し疲れた私をよそに、長が立ち上がる。
直後にとん、と左足が床に打ち付けられる。足首に重なる輪っかが互いに軽く当たり、小さな音を立てた。同時に、彼の足下に魔法陣が現れる。
長が手のひらを上に向けると、ひらりと舞い降りた一本の紐が、色白の手の中に収まった。
手にした紐を、長は両手の指で摘まんで引っ張り、器用に片方の親指で弾いてならす。
鮮やかで滑らかな一連の動作に目を奪われた私は、長が紙片を拾い上げて紐で十字に括り終えるまで、何も言えずにいた。
長はこうして、私の言いたいことも、長自身の思うことも、水に溶かしてしまうのだ。
心の水壺の中で、小さな泡が生まれては、水面にのぼり、はじけて消えてゆく。
ふつ、ふつ、と。
長の中はきっと、仕切りのない広大な海で。幾多もの泡が生まれては流れ、渦巻いているのだろう。
彼もまた、抱えるものが大きすぎるのだ。
救いなのは、彼自身が海にのまれない程度に、必要あらば他を頼ってくれるところだろうか。
顔を合わせたばかりの当初より、彼の口数は増えたが、できることならもう少し頼ってくれてもと思う。
そんなことを考えながら長に釘付けな私の姿が、彼からは物欲しげにでも見えたのだろう。
「……読む?」
「ください」
勢いで答えた今、紙片の束は私の腕の中にある。
長はというと、ララーノを迎えに太柱のあるところへと去っていった。
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