時空橋編(17)


 静かな部屋の中で、フッセのすすり泣きだけが聞こえた。彼は床にうずくまり、転換石の資料を抱いて、小さな涙をぽろぽろとこぼしている。
 一向に顔を上げない彼を見ても、不思議なぐらいに私は冷静だった。ああ、私も先代と変わらなかったのだ、と。

 先代があれだけフッセに想いを込めていたのだから、彼もきっと同じだったはずだ。彼に、先代の遺した記録を見せればどうなるか。私にだって予想はついていた。
 実際のところ、彼の反応は想像を遥かに上回っていたのだが。

 そこで敢えて、フッセに記録を見せたのには理由がある。工房一家への協力が理由なのはもちろんだが、私自身が先代の意図を知りたかったから、というのも大きい。

 結局、私もフッセを利用したのだ。
 彼は、どこまでも正直だから。
 なのに、見えないものがある。
 どこまでも正直だからこそ、時間をかけて内側で育てられた、彼の想いと言おうか。
 隠されていたものは計り知れないほどに大きく、涙となって溢れたものは、その一部にすぎなかったのだろう。

 先代は、どこまでわかっていたのだろうか。
 やるせない気持ちに私は歯噛みしていたが、こちらに近寄るひとりの姿に、我に返る。
 スカートを摘まんで浮かせ、灰紫の髪を左右に揺らし、床に散らかる雑品を避けながら歩いてくるのは、フォンエだった。
 彼女が上から覗き込むので、フッセははじめ、戸惑いに目を丸めたが。突然泣き崩れたのを心配して来たのだと察したのか、震える手で転換石の資料を開いてフォンエに見せた。
 彼の指がさすままに、例の一文をフォンエがなぞる。
「……そっかぁ。フッセの幸せを願ってくれるひとがいたんだね」
 彼女はその場にしゃがみ込み、フッセと目線を合わせた。告げられたのは、彼女の素直な気持ち。
「精霊にだってわかるんだよ」

 フッセは、丸めていた目に瞼を被せてしまった。
「……でも、シューナは、……幸せだったのかな」
「いーの。……って、私が言えたことじゃないか」
 わざとらしく眉を吊り上げて見せたフォンエだが、すぐにやわらかな苦笑にとろけた。

「ずっと前にね。転換石としてじゃないんだけど、同じ石を魔法道具として使っている子がいたよ。
 その子、いつも楽しそうに笑っていたんだって。
 私はその子のことをあまり覚えていないんだけど、その子は色んな所で色んなひと達を笑顔にしてきたみたいでさ。
 その子はもういないのに、周りのひと達が集まって、その子の話をしていたことがあってね。
 魔法道具のおかげじゃないのかもしれないし、その子の本来の実力なのかもしれない。
 どっちにしてもね。その子、世代を超えてひとびとを繋げて、幸せにしてきたんだよ」
 顔だけこちらに振り返ったフォンエが、ねっ、とユイユに笑いかける。ユイユの迷うことない大きな肯定を受けて、今度はフッセに、だってさ、と伝えた。

「『祈りの魔法』が残ろうが消えようが、誰かが大切なひとの幸せを祈って、そのひとの道具に想いを託したのは確かだから。
 不思議なことにね、感情を消そうと思っても、魔法にくっついてくることだってあるんだよ。
 魔法の連なりだけで説明できなかったところに、ひとの想いを当てはめると、説明がついてしまうこともあった」
「……転換石も?」
「かもしれないよ」
 見せて、とフォンエが言うので、フッセが資料を自身の横にぴたりと置いた。
 腰のポケットに手を入れて転換石を取り出すと、入れ口と結んでいた紐を解き、両手で包んでフォンエに差し出した。
 しっとりと薄く透ける、細かなカットが施された白い石。部屋の灯りに照らされて、繊細な切り口が光の粒を滑らせる。
 初めて間近で見る魔法道具に、フォンエが目を見開いて、感嘆の息を漏らした。

「……素敵な石」

 先のフッセと同じように両手で包み、丁重に、あらゆる方向から転換石を観察する。
 その様子を見てようやく、フッセが口角をわずかに上げた。
「……そうでしょう?」
 瞳はまだ、潤んでいたが。
「シューナが診てくれていたんだ」
 眉尻を下げて。
「うん。ふたりで大切にしてきたんだね」
 相手の言葉に、一筋の涙を頬に伝わせて。思い切り、首を縦に振ったのだった。
「フォンエ、……ありがとう」
「私もありがとうだよ、フッセ」
 転換石を返すやいなや、フォンエがフッセを抱き寄せる。背中をさすり、泣きたくなるよね、ずっと耐えてきたんだね、と語りかける。ひとつひとつの彼女の言葉に、腕の中でフッセが頷いた。

 大切なら、傍にいてあげれば良いのにね。
 でも、離れなきゃいけなくなることもあるよね。
 だけど、せめて少しでも、傍にいたかったよね。


  *

 室内に現れた紙片を、真っ先に見つけたのはユイユだった。
 持ち前の動体視力を活かしてか、ひらりひらりと舞い落ちるその紙片を、両手で挟んで受け止める。
 そのまま頭上からずり下ろし、指の隙間から覗く文字に彼は瞬きを繰り返した。
「……ルー様から?」
 慌てた様子で紙片を持ち直し、そこに書かれていた文面を読み上げる。

『相手組織の重要人物の来訪を許した。当人より送られた『手紙』と交換召喚した形になる。
 『手紙』には、コーレニンを掌握しかねない魔法が封入されていたため、未開封のまま返送した。
 来訪者は一名。現在は大広間にて監視中。背が高いのですぐにわかる。各々、行動には注意するように』

 事態は進んでいた。
 各々がとれる行動も、自ずと限られる。私は机から魂の本を持ち上げて、立て掛けていた杖を手に取った。
「持ち場を離れたこの班にも指令書が届いたのですから、全魂系に通達が送られたものと考えられます。来た時よりも、対策なくして工房に戻ることは難しくなるでしょう」

 そして、私は以下の提案を述べた。
 図書館までは、往路と同じ道を辿りゆくこと。
 図書館正面にある部屋で、工房一家が待機すること。
 待機中に、ユイユの対話魔法でウェイウィーアとハルテの魂系に助けを求めること。
 いずれかの魂系の付き添いで、西部の工房まで戻ること。

 理由は、次の通りだ。
 図書館のある北東部から、私達が今いる東部までは、見張り班から通行許可を得ている。彼らには、図書館班の一員であるクオノから『おつかい』だと説明されているので、復路も通るものだと思われているだろう。通過の際に確認する必要はあるが。
 工房一家の待機場所に、図書館正面の部屋を提案したのは、そこが図書館班の寝泊まり場所だからだ。かつてのオシャーンの居室であり、日中は鍵も掛かっていないという。
 助けを求める相手であるウェイウィーアとハルテの魂系は、自由に動く大義名分を持つ、希有な魂系だ。動きやすい魂系には、他にルアンの魂系とルーの魂系が挙げられるが、どちらも現在の状況下では最も警戒心を高める魂系だろう。送り迎えを頼むのは難しい。

 異を唱える者はいなかった。決行だ。

 道中は、大方予想通りであった。見張り班から牽制の書面は落とされたが、通行自体に難はない。
 淡い灯りに照らされた廊下から、小狭い通路。丸池の間を抜けて、何本もの細い水路をひとつの橋で渡る。
 角を曲がり歩み進むと、やがて、木枠に縁取られた磨り硝子の並ぶ壁が見えてきた。大扉の前でこちらに手を振るのは、クオノとモンサシア。
 図書館の正面玄関を守る彼らに事情を話してから、大扉の向かいにある、一人分の幅の扉を私達はくぐる。

 オシャーンの居室だったその部屋は、床が一段高くなっていた。コーレニンにしては珍しく、靴を脱いで上がる装いのようだ。
 室内は、奥の壁面に沿って作り付けの座卓があるのみ。他には納戸とみられる引き戸があるが、他はまったく、小物ですら何もない。
 私の知る限りでは、持ち場に就くよう指示を受けてから、オシャーンは一歩も図書館から離れていない。だから、布団もまだ図書館に置いてあるのだろう。
 玄関の階段から腕を伸ばして明かりを灯すと、辺りが弱々しく照らされた。待機中という立場だからか、工房一家の三名は遠慮がちに、身を寄せ合って玄関の縁に座った。
 真ん中で挟まれたユイユが鐘の杖を握り、同世代のベベル・ウェイウィーアとの対話を試みる。

 話し始めたユイユは穏やかな語り口でいたが、要件を口にする途中で、ひどく困惑した声音を上げた。
 ベベルの声はこちらに聞こえなかったが、向こうから怒号が飛んできたらしい。その後も手厳しい言葉を立て続けに浴びせられている様子だった。
 話し終えると気が抜けたのか、ユイユが板間に倒れ込む。片耳を手で塞ぎながらも、反対側の手には杖が固く握られていた。
「……痛かった」
「でしょうね」
「ベベル達が三人で来てくれるって」
「それは良かったです。では私はこれで」

「待って」
 背を向けようとした私を呼び止めたのは、フォンエだった。
「協力してくれてありがとう。またお願いすることがあったら……助けて」
 フォンエは何かを躊躇っていたが、意を決したようで、あのね、と切り出した。

「不思議なんだよね。ひとことに『祈りの魔法』といっても、転換石と手紙とで、魔法の結果が大きく違っているじゃん?
 託された想いの中身が違うからなのか、魔法の程度が違うからなのか、他の魔法との絡みがあるからなのか、知らないけどさ。
 私にはどうにも、手紙にかけられた『祈りの魔法』が、純粋に誰かの幸せを願ったものとは思えないんだ」







 menu